戦国武将 真田幸村の名言-「恩義を忘れ 私欲を貪り 人と呼べるか」「軍旗 六文銭」
目次 1 言葉の意味 「恩義を忘れ 私欲を貪り 人と呼べるか。」
2 雑談・豆知識(軍旗 六文銭)
3 戦国武将 真田幸村とは
★1「恩義を忘れ 私欲を貪り 人と呼べるか」の意味
この言葉は、「人からの恩義を忘れて、私欲をむさぼるような者を、人と呼べるのか。」という意味です。
この言葉は、関ヶ原合戦の時、真田幸村は 豊臣側についていましたが、徳川側からも誘いを受け、その誘いを断った時の言葉です。
さすが、真田幸村。
義を大切にする武将です。
私も、「義」という言葉を大切にしています。
真田幸村と同じように、「義」を貫きたいと思います。
★2 雑学・豆知識(軍旗 六文銭)
真田家の軍旗は、六文銭です。
六文銭とは、三途の川の渡し賃と言われています。
つまり、六文の銭が無いと、三途の川を渡れないと言うことですね。
言わば、いつでも死ぬ覚悟で戦っているという、真田家の武勇の表れではないでしょうか。
この六文銭の軍旗は、真田幸村の祖父である真田幸隆(さなだ ゆきたか)より使われたと言われています。
私の部屋には、六文銭のタオルが飾ってあります(^-^;
★3 戦国武将の真田幸村(信繁)とは
まず初めに、真田幸村と記載された文章は無く、信繁が正しいですが、当ブログでは、あくまで世間に広く知られた幸村と記載します。
真田幸村は、信濃小県(現在の長野県)にて元亀元年(1570年)に、父である真田昌幸、母である山手殿の次男として生まれます。
武田家が滅亡してから真田氏は、上杉景勝に一時期帰属します。
これは、天正13年(1585年)に、行われる徳川家康との戦いに備えるためです。
帰属するために真田幸村は、上杉家の人質となります。
この戦いを、第一次上田合戦と言い、真田軍が徳川軍を破っています。
この時の兵力は、真田軍1200人に対し、徳川軍7000人と言われています。
その後、豊臣秀吉が天下統一すると、昌幸は秀吉に服属します。
服属の証として、幸村は大阪に送られます。
ここで幸村は、秀吉の馬廻衆となり、後に左衛門佐に任じられます。
秀吉の死後、徳川家康が天下を狙うと、前述したように、父の昌幸と次男の幸村が豊臣方に味方し、長男の信幸は徳川方に味方します。
この背景には、信幸の妻が家康の養女であったことや、幸村の妻が大谷吉継の娘で、昌幸の妻が石田三成の妻とは姉妹の関係にあったことが、理由であると言われています。
天下を分けた「関ヶ原の戦い」が始まります。
大阪に向かう徳川軍(東軍)は、敵である真田を責めます。
これを、第二次上田合戦と言います。
真田軍2500人対し、徳川軍は38000人と言われています。
この時の真田軍も、徳川軍を破り、徳川秀忠を関ヶ原合戦に間に合わないようにしました。
真田軍は、二度にわたり、徳川軍に勝っているのです。
ただ、関ヶ原の戦いは、東軍である徳川家康の勝利に終わり、真田父子(昌幸、幸村)は、紀州九度山(現在の和歌山県)に蟄居となります。
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに、徳川氏と豊臣氏の関係が悪化します。
そしてついに、徳川氏と豊臣氏との戦いが始まります。
大阪冬の陣です。
大坂冬の陣では、大阪城の一番弱い箇所を見抜き、そこに「真田丸」と言う出城を築きます。
ここで、徳川軍を散々に破ります。
一時期、豊臣秀頼と徳川家康は和睦をしますが、豊臣軍が浪人を開放しなかったこと等が原因で、また戦が始まります。
大坂夏の陣です。
外堀、内堀を埋められた大坂城では戦えないと判断した幸村は、打って出ます。
しかし、多勢に無勢、力尽きた幸村は、四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で休んでいたところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、討ち取られます。
討ち取られるというか、討ち取らせたと言った方が正しいかも。
享年49歳です。
この、大坂夏の陣で、真田幸村の名前は一気に広がり、「真田日本一の兵(つわもの)」と、言われます。
私は、最後まで裏切らず、赤備えの軍団にて華々しく散った、真田左衛門佐幸村も、大好きな戦国武将の一人です(^^♪
大河ドラマも見てましたよ♪