幕末志士 日本の偉人 西郷隆盛の名言-「およそ思慮は平生、黙座静思の際においてすべし。」
目次 1 言葉の意味 「およそ思慮は平生、黙座静思の際においてすべし。」
2 西郷隆盛(さいごう たかもり)とは
3 雑談・豆知識(せごどん)
★1「およそ思慮は平生、黙座静思の際においてすべし。」の意味
この言葉は、「深く考えるときは、黙って座り静かに行うこと」という意味です。
あなたは、深く物事を考える時、どのようにしていますか?
私は、神棚に手を合わせて考えるようにしています。
でも、フッと出たアイデアや答えは、第六感(神様からのお告げ)だと信じるようにしています。
その第六感の答えについて、考えたりもします(^-^;
西郷隆盛曰く、「黙って」「座って」静かにしていると、自己対話ができ、良い答えが導かれそうですね。
★2 西郷隆盛(さいごう たかもり)とは
西郷隆盛(さいごう たかもり)は、文政10年12月7日(1828年1月23日に、
薩摩国(現在の鹿児島県)の下級藩士で、父である西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれます。
幼名は小吉と言い、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と変更します。
諱は、元服時に隆永(たかなが)のちに武雄、隆盛(たかもり)と変更します。
このブログでは、隆盛で記載します。
隆盛は、薩摩藩の下級武士でしたが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、斉彬の身近にあって、強い影響を受けます。
斉彬の急死で奄美大島に島流しにされますが、復帰した後も、新藩主である島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪されます。
しかし、家老である小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導します。
江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止にします。
その後、薩摩へ帰郷しますが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職します。
さらにその後には陸軍大将や近衛都督を兼務し、大久保、木戸孝允ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導します。
朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されましたが、帰国した大久保らと対立します。
明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野して再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念します。
佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治
10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃(切腹)します。
享年は、51歳でした。
余談ですが、次弟は戊辰戦争で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)です。
大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚です。
★3 雑談・豆知識(せごどん)
大河ドラマの「せごどん」、見ています。
私にも娘がいますので、 今週の「せごどん」のように子供が売られえていくのを見ていると、自分の子供だったらと重なり、泣けてきます。
鈴木亮平さんの西郷吉之助は、昔の「飛ぶが如く」の西田敏行さんと違う味が出ていて、今後も楽しみです。
ドラマも良いですが、小説もいいですよ。
私が好きな、池波正太郎さんの西郷隆
盛を紹介します。
画像をクリックすれば、詳細が見れますよ!
池波さんの小説は、読みやすくて、情景が浮かんでくるので、大好きです(^^♪
最後に、この名言(格言)、句を、結婚式の挨拶、朝礼、昼礼、スピーチ、会議、雑談、豆知識、ちょっとした話に利用してください。
この言葉で、あなたの悩み、精神的負担が少しでも軽減されれば嬉しいです。
きっとスピーチが苦手な方でも、スムーズに話せ、相手の印象に残る挨拶となるはずです!
今日も、最後までお読み頂き、ありがとうございましたm(__)m