格言スピーチ

戦国武将の言葉、幕末志士の格言をご紹介。朝の朝礼、スピーチに役立ててください!

戦国武将 豊臣秀吉の辞世句(名言)-「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

目次 1 言葉の意味 「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

   2 戦国武将 豊臣秀吉とは

     雑談・豆知識(花見)

 

★1「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」の意味

 この言葉は、「露のようにこの世に生まれ、そして露のように消えていく、自分。

大阪城で過ごした日々は、夢の中で、夢を見ているようなことだった。」という、意味です。

 栄華を誇った豊臣秀吉ですが、亡くなる時は、寂しかったんですね。

 私は、子供や家族の迷惑にならないように、眠っているように死んでいきたいと思っています。

 豊臣秀吉は、天下人になるまでは人望があったと思いますが、天下人になってからは人が変わってしまったかと思うほど、冷酷な性格が出てきます。

 例えお金持ちになっても、性格は変わらず生きていきたいですね。

 豊臣秀吉にすれば、天下人の間は、好き勝手にできた、夢のような出来事だったのでしょうね。

 

 

★2 戦国武将 豊臣秀吉と

 

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 豊臣秀吉は、天文6年(1537年)、尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の愛知県名古屋市中村区)で、足軽と伝えられる父である「木下弥右衛門」と、母である「なか」(のちの大政所)の子として生まれます。

 はじめ木下藤吉郎(きのした とうきちろう)、後の豊臣秀吉は、今川氏の直臣である飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の静岡県浜松市南区頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主であった松下之綱に仕えますが、まもなく家を出ます。

 天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕え、 清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げるなどし、次第に織田家中で頭角を現していきます。

 また、信長の草履取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めて、信長を喜ばせたという逸話が有名です。

 永禄4年(1561年)8月、浅野長勝の養女で杉原定利の娘である「おね」と結婚します。

 永禄7年(1564年)、美濃国(現在の岐阜県)の斎藤龍興との戦いで、松倉城主の坪内利定や、鵜沼城主の大沢次郎左衛門らに誘降工作を行い成功させます。

 永禄11年(1568年)には、近江箕作城攻略戦で活躍し、信長の上洛に際して明智光秀や、丹羽長秀らとともに京都の政務を任されます。

 元亀元年(1570年)、越前国(現在の福井県)の朝倉義景討伐に従軍し順調に侵攻を進めますが、北近江(現在の滋賀県)の浅井長政が裏切り、織田軍を背後から急襲します。

 このため、浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機になりますが、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿軍を務め功績をあげます。

 天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となり、木下姓を羽柴姓に改めます。

 天正5年(1577年)、信長に毛利氏の勢力下にある中国地方攻略を命ぜられ、秀吉は播磨国(現在の兵庫県)に出陣し戦功をあげます。

 天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨の三木城主である別所長治を撃破します。

 天正10年(1582年)には備中国(現在の岡山県)に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めにしている最中に、主君である織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により自害したことを知ります。

 このとき、秀吉は事件を知ると、すぐさま清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を引き返します。

 秀吉は、天正10年(1582年)6月13日に山崎において明智光秀との戦いに勝利します。

 同年6月27日には、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれ、秀吉が擁立した、織田信忠(信長の長男)の子である幼少の三法師が、信長の後継者となったことで、秀吉の意見が通り、織田家において秀吉の地位は高まりました。

 天正11年(1583年)4月には、柴田勝家を越前にて破り、織田家の実力者たちを葬ったことにより、秀吉は織田家臣第一の地位を確立します。

 天正11年(1583年)には、大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に黒田孝高(如水)を総奉行として、大坂城を築きます。

 天正12年(1584年)からの小牧長久手の戦いでは、織田信雄、徳川家康連合軍に苦しめられますが、最後には、信雄の本領である美濃や北伊勢の諸城を次々と攻略し、危機を感じた信雄と和議を結んだことで終焉します。

 天正13年(1585年)には、紀伊国(現在の和歌山県)に侵攻して雑賀党を各地で破り、四国を統一した長宗我部元親に対しても、弟の羽柴秀長を総大将とし、黒田孝高を軍監として10万の大軍を四国に送り込んで四国を平定し、近衛前久の猶子となることで、関白宣下を受けます。

 天正14年(1586年)9月には、正親町天皇から豊臣の姓を賜り、太政大臣に就任し、豊臣政権を確立させます。

 天正15年(1587年)には20万の大軍を率いて島津義久を降伏させ、九州平定に至ります。

 天正17年(1589年)には、側室の淀殿との間に鶴松が産まれ、後継者に指名します。

 また同年、後北条氏の家臣である猪俣邦憲が、真田昌幸の家臣である鈴木重則が守る上野(現在の群馬県)名胡桃城を奪取したことをきっかけとして、秀吉は天正18年(1590年)に、20万の大軍で後北条氏の本拠である小田原城を包囲し、3ケ月の篭城戦の後に開城されました。

 その後、秀吉が東国へ出陣すると、最上義光、伊達政宗ら奥羽の大名も小田原に参陣し、奥羽も平定され、天下統一は達成されます。

 天正19年(1591年)には、弟の豊臣秀長と、後継者に指名していた鶴松が、相次いで病死したため、甥である秀次を養子として関白職を譲り、自身は、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになります。

 同年8月に秀吉は、来春に「唐入り」を決行することを全国に布告し、まず肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き、文禄元年(1592年)3月、明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵します。

 初めは日本軍が朝鮮軍を撃破し、漢城、平壌などを占領するなど圧倒しますが、各地の義兵による抵抗や明の援軍が到着したことによって戦況は膠着状態となり、文禄2年(1593年)には、明との間に講和交渉が開始されます。

 文禄2年(1593年)8月には、側室である淀殿が、秀頼(拾)を産みます。

 秀頼誕生に焦った秀次は、「関白の座を奪われるのではないか」との不安感をだき、次第に情緒不安定となり、文禄4年(1595年)には、秀次に謀反の疑いが持ち上がり秀次は切腹となります。

 慶長2年(1597年)、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵し、漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、2ヶ月で慶尚道、全羅道、忠清道を制圧しますが、秀吉の死により、五大老によって、朝鮮半島在番の日本軍に帰国命令が発令されます。

 自分の死が近いことを悟った秀吉は、伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、秀頼に忠誠を誓わせたと言います。

 享年、62歳でした。

 

 

 

 ★3 雑談・豆知識(花見)

 

  死を悟った豊臣秀吉は、各地から700本の桜を集めて、京都の醍醐寺三宝院の境内に植えさせて、花見を楽しみます。

 花見は、楽しいですね。

 私も大好きです。

 家にも桜を植えたいですが、大きくなり、毛虫が多い桜は(^-^;

 しかし、大きくならない桜を見つけましたので、詳細は画像をクリックしてください!

 

 でも、大人数は苦手ですので、友人4人程での花見が好きです。

 しかも、お酒は飲めないので、もっぱら食べるのが主となります。

 あっ、自然は大好きなので、桜を見ながら食べるのが好きです(^^♪

 早く、春にならないかなぁ~

 

 

 

最後に、この名言(格言)、句を、結婚式の挨拶、朝礼、昼礼、スピーチ、会議、雑談、豆知識、ちょっとした話に利用してください。

この言葉で、あなたの悩み、精神的負担が少しでも軽減されれば嬉しいです。

きっとスピーチが苦手な方でも、スムーズに話せ、相手の印象に残る挨拶となるはずです!

今日も、最後までお読み頂き、ありがとうございましたm(__)m