格言スピーチ

戦国武将の言葉、幕末志士の格言をご紹介。朝の朝礼、スピーチに役立ててください!

戦国武将 黒田官兵衛(如水)の名言(朝礼、スピーチ、結婚式に)-「水五訓」

目次 1 言葉の意味 「水五訓」

   2 黒田官兵衛とは

   3 黒田官兵衛の辞世句とは

   4 雑談・豆知識(腰痛と関節炎)

 

 ★1 「水五訓」の意味とは

 水五訓は、進む道(人生)を水に例えた、下記の5個の教えです。

 一.自ら活動して他を動かしむるは水なり

 二.常に己の進路を求めて止まざるは水なり

 三.障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり

 四.自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり

 五.洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり
   雪と変じ霰(あられ)と化し凝(ぎょう)しては玲瓏(れいろう)
   たる鏡となりたえるも其(その)性を失はざるは水なり

 

 これを、現在風に訳すと下記のようになると思います。

 

 一は、自らが動くことで周りのものを動かし、運んでいくのが水だ。

 二は、いつも自分の進路を求めて、止まらないのが水だ。

 三は、障害に会っても流れを止めず、例え止められても解放された時、逆に激しくなるのが水だ。

 四は、汚れた水が途中から入ってきても一つとなり、きれいになって進むのが水だ。

 五は、温度は変わるし、水は蒸気となり、雲となり、雨となり、雪、霰と形は変わるが、与えられた環境の中で、性質が変わらないのが水だ。

 


 一は、自分が動かないで、ああしろ、こうしろと言っても、誰も動くはずがなく、自ら模範を示し、周囲を牽引する人間になることが大切だと言っています。

 二は、水はどんな環境でも流れを止めることなく動くように、自ら考えて道を切り開く努力をっするように言っています。

 三は、諦めず、苦しい時もじっと耐えて努力を続けていけば、大きな力となり結果が出ると言っています。

 四は、水は、他所から濁った水が注がれてきても、「入ってくるな」とか「出ていけ」とは言いません。

 人を追いやることをせず、皆一緒の目的に向かって進み、頑張れという事を言っています。
 五は、変化に対応し柔軟となり、与えられた環境の中でいかにして最大の努力を行えるかが大切だと言っています。

 戦国時代、この水五訓を残した黒田官兵衛は、やはり凄い人物ですね。

 

この水五訓は、現在でも通じる道しるべではないでしょうか。

 私達人間が、生きていく上で、大切にしなければならない言葉、生き方だと思います。

 

 

 ★2 黒田官兵衛とは

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 黒田孝高(くろだ よしたか)は、一般には通称をとった黒田官兵衛(くろだ かんべえ)、また、剃髪後の号をとった黒田如水(くろだ じょすい)として広く知られていますので、当ブログでは以下「官兵衛」と表示します。


 官兵衛は、天文15年に黒田職隆の嫡男として、播磨国(現在の姫路)に生まれます。

 幼名は万吉で、永禄2年に母親を亡くし、文学に耽溺したと言われています。

 永禄4年に、小寺政職の近習となり、永禄5年(1562年)には、父と共に土豪を征伐し、初陣を飾ります。

 この年から、小寺官兵衛を名乗っています。

 永禄10年(1567年)頃に官兵衛は、父である職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘である光(てる)を正室に迎え、姫路城代となります。
天正3年(1575年)、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君である小寺政職に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言し、同7月、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の取次により岐阜城で信長に謁見し、信長から名刀「圧切長谷部」を授かります。

 天正5年(1577年)10月、信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後に、羽柴秀吉を播磨に進駐させた為、官兵衛は、一族を国府山城に移し、居城であった姫路城本丸を秀吉に提供し、自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになります。

 同月末に官兵衛は、秀吉本隊の上月城攻めに従い、佐用城攻めでは竹中半兵衛(重治)らと共に先陣を務めています。

 天正6年(1578年)9月には、織田家の重臣で摂津国(現在の大阪府摂津市)を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城に籠城(有岡城の戦い)します。

 この時、官兵衛の主君である小寺政職も村重に呼応したために、官兵衛は同年10月、村重を翻意させるために有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に土牢に幽閉されます。

 この1年後の天正7年(1579年)、本丸を残すのみとなっていた有岡城は開城し、官兵衛は救出されますが、幽閉さらt後遺症として左足が不自由となります。
 天正8年(1580年)1月、秀吉は2年間の戦いの末、別所長治の三木城を陥とし、小寺政職も、信長の嫡男である織田信忠によって討伐されて、大名としての小寺氏は滅びます。

 小寺氏が滅び、織田家臣として秀吉の与力となった官兵衛は、名字を小寺から黒田を名乗るようになります。

 天正9年(1581年)6月、前年に降伏した山名豊国を追放して吉川経家を城主に迎え入れていた因幡国の鳥取城へ、秀吉は再び出兵(第二次鳥取城攻め)し、これに孝高も加わります。

 天正10年(1582年)、毛利氏の武将である清水宗治が守る備中高松城攻略に際し官兵衛は、船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めて水攻めするように献策し成功させたと言われています。


 この高松城攻めの最中の展生10年6月2日、京都で明智光秀により本能寺の変が起こり、信長が討ち死にします。

 この変を知った官兵衛は、秀吉に毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたという逸話があります。

 この時の逸話として、信長の死を知り落胆する秀吉に、「いよいよ時期が廻ってきました」と言い、秀吉から恐れられたとあります。

 後に官兵衛は、この言葉を、口が滑ったといったとも。

 
 天正13年(1585年)の四国攻めには、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家軍に軍監として加わり、先鋒として諸城を陥落させていきます。
 天正14年(1586年)には、従五位下に叙任されます。

 また同年10月、大友宗麟の要請による九州征伐では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として豊前国に上陸し、長野鎮辰の馬ヶ岳城他、時枝鎮継の時枝城などを収容し、宇留津城、香春岳城などを陥落させます。


 九州平定後の天正15年(1587年)、豊前国の中の6郡(宇佐郡半郡は大友吉統領)、およそ12万石(太閤検地後17万石以上)を与えられ、中津城の築城を開始します。

 天正17年(1589年)5月、家督を嫡男の長政に譲ります。

 天正18年(1590年)の小田原征伐で官兵衛は、北条氏政と氏直父子が籠る小田原城に入って開城を説得し、無血開城させる功績を立てます。

 秀吉は留守居役をしていた官兵衛の息子である長政に、「小田原の儀、北条一類首を刎ねられ、御本意残所なく仰せ付けられ候、今度の首尾、勘解由、渕底候条、委曲申し遣わすべく候」と、官兵衛の活躍により戦いは終結したと、功績を称えた朱印状を送っています。


文禄の役(1592年)では、総大将である宇喜多秀家の軍監として参加したが、小西行長などの暴走で思ったような指揮を執れず、病を理由に帰国します。

 文禄2年(1593年)、第二次晋州城攻防戦においての後藤基次らが用いた亀甲車の設計や、和式城郭の縄張りなどに携わります。

 同年8月、無断帰国したことを秀吉に叱責され、死を覚悟した官兵衛は剃髪して「如水軒円清」と号しますが、赦免されます。

 慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が死去した後、慶長5年(1600年)には、関ヶ原の戦いが勃発する。

 中津に帰国していた如水は、名目上は家康方に参戦としながら、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9,000人ほどの速成軍を作り上げ、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突し、大友軍に勝利(石垣原の戦い)します。
この後、西軍敗報をしった官兵衛は、藤堂高虎を通じて家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属した太田一吉の臼杵城(佐賀関の戦い)などの諸城を落としていきます。


 関ヶ原の合戦の後、徳川家康はまず長政に勲功として豊前国中津12万石から筑前国名島(現在の福岡県)52万石への大幅加増移封をした後、井伊直政や藤堂高虎の勧めもあり、官兵衛にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示するが、官兵衛は辞退し、その後は中央政治に関与することなく隠居生活を送ります。

 

 晩年は福岡城に残る御鷹屋敷や、中興の祖と言われ再建に努めた太宰府天満宮内に草庵(如水が茶で使用した井戸が残る)などを構えています。 

 慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸(現在の京都市伏見区深草大亀谷敦賀町近辺)にて死去します。

 享年、59歳でした。

 

 「軍師、官兵衛」NHKの大河ドラマも見ていました。

 軍師って、私の憧れです。

 なんか、かっこ良くないですか!

 緻密な計算をして、先の先を読み、相手の心を読み、自分のできる限界を尽くす。

 私は今でも軍師を目指しています。

 影の支配者って感じで(^-^;

 軍師って、黒田官兵衛、竹中半兵衛、山本勘助、片倉小十郎、太原雪斎など、色々な軍師が思い浮かびます。

 全員がカッコイイ♪

 そんな、軍師 官兵衛を感じてください。

 これ、歴史好きな友人(官兵衛好き)にプレゼントしたら、大喜びでしたよ。

 画像をクリックすれば、大きな画像が見れて、更に詳細情報が見れますよ(^^♪

 

 

 

★3 黒田官兵衛の辞世句とは

 

 辞世の句は、「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道は迷はじ なるにまかせて」です。

 この辞世句は、「この世に思い残すことはもう何もない。今は迷うことなく心静かに旅立つだけだ。」という、意味です。

 

 官兵衛にしては、ひねった辞世句ではなく、普通な辞世句かなって思います。

 でも、この辞世句のように、何も思い残すことがないほど現世に満足して、あの世に行きたいですね。

 

 

 ★4 雑談・豆知識(関節炎と腰痛)

  黒田官兵衛は、1年間幽閉されて足を悪くしました。

 関節炎ですね。

 私も仕事柄、正座ではありませんが、座っていることが多いので、関節というか腰痛に悩まされています。

 腰痛に効く、体操って知っていますか。

 私は、この「寝たまんま体操」をしてから、腰痛がましになりました。

 腰痛や関節炎は、つらいと思います。

 ひどくなれば、吐き気もします。

 この体操で、少しでも楽になってくださいね。

 同じ腰痛で悩んでいるあなたの気持ちが分かるから!

 

 

最後に、この名言(格言)、句を、結婚式の挨拶、朝礼、昼礼、スピーチ、会議、雑談、豆知識、ちょっとした話に利用してください。

この言葉で、あなたの悩み、精神的負担が少しでも軽減されれば嬉しいです。

きっとスピーチが苦手な方でも、スムーズに話せ、相手の印象に残る挨拶となるはずです!

今日も、最後までお読み頂き、ありがとうございましたm(__)m