格言スピーチ

戦国武将の言葉、幕末志士の格言をご紹介。朝の朝礼、スピーチに役立ててください!

戦国武将 直江兼続の名言-「獅子 欺かざる力」

★「獅子 欺かざる力(しし あざむかざるちから)」の意味とは

 直訳すると、「獅子は、兎を仕留めるにも全力を尽くす」という、意味です。

 もう少し、かみ砕くと、「ココという時は全力でする」という、意味になるかもしれません。

 この言葉は、「一夢庵風流記」という隆慶一郎著の小説を題材にして生まれた「花の慶次」というマンガ内で、主人公の前田慶次郎(以下、前田慶次)が、上杉家の小姓同士の争いに巻き込まれ、十数人の小姓対、前田慶次が果たし合いをし、その立会い人となった直江兼続が発した言葉です。

 小姓相手であっても前田慶次は手を抜かず、全力で相手を倒しに行きます。

 前田慶次ほどの武人であってもです。

 戦い(果し合い)と言う場では、力を抜くことは失礼(無礼)。

 だから、慶次は礼を尽くし、全力で立ち向かったのでしょう。

 力を抜く時もあるでしょう。

 抜く時は抜き、力を入れる時は全力で!

 ずっと力が入っていると、イザと言う時、力が出ません。

 ただ、ココゾという時は、全力で立ち向かいましょう!

 

★戦国武将 直江兼続とは

 f:id:kakugen-speech1:20171126141339j:plain

 直江兼続(なおえ かねつぐ)は、諸説ありますが通説では、永禄3年(1560年)に父である樋口兼豊の長男として、坂戸城下(現在の新潟県南魚沼市)で生まれます。

  永禄7年(1564年)に、上田長尾家当主である長尾政景が死去すると、上杉謙信の養子となった政景の子である顕景(後の上杉景勝)に従って春日山城に入り、景勝の小姓となります。

 天正9年(1581年)に、上杉景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起きます。

 兼続は景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子(船は再婚)となり、跡取りのいなくなった直江家を継いで、越後与板城主となります。

 天正11年(1583年)には山城守、天正14年(1586年)には、従五位下に任じられます。

 天正16年(1588年)には、上杉景勝に従って大坂へ上京し、豊臣秀吉から豊臣姓を授けられます。

 兼続は豊臣政権で、戦乱にて疲弊した越後を立て直そうと、田畑の開墾を奨励したり、産業の育成、商業の発展に奔走します。

 慶長3年(1598年)には秀吉の命で、上杉家が越後から会津120万石に加増移封されたますが、兼続には30万石の所領が与えられています。

 慶長3年(1598年)秀吉が没した年には、新しい城である「神指城」の築城を始めますが、これが徳川家康と戦うなどとと思われた為、徳川家康は上杉討伐の軍を起こします。

 ここで、徳川家康に謀反ではない旨、上杉家の思いを書いた直江状を書きます。

 ただ、この上杉討伐がきっかけで、関ヶ原の合戦と繋がります。

 関ヶ原の敗戦を受け、上杉家は会津120万石から出羽米沢30万石に減移封となりますが、上杉家の存続を許されます。

 兼続は、米沢の治水工事、町整備、殖産興業などの藩制に力を入れます。

 また、後年に起こった大坂の陣でも武功を上げます。

 そして、元和5年(1619年)に江戸鱗屋敷(現在の東京都千代田区)にて、病死します。

享年、60歳でした。

 

 直江兼続と言えば、「愛」と書いた兜が有名ですよね。

 前田慶次が直江兼続を、「武人としては優しすぎる」と、称しています。

 戦国時代、愛を大切する武将は皆無だったと思います。

 また、その愛を前面に出す武将なんて・・・

画像をクリックすれば、大きな画像が見れて、更に、詳細情報が見れますよ!

 

 

 ただ、知略や武略を尽くし、上杉景勝を支えたことは間違いありません。

 優しかった兼続は、仲間、農民から慕われていたんでしょうね。

 現在の世の中でも「愛」は少なくなっていますが、「愛」を大切に生きたいと思っています!

 

 

 

最後に、この名言(格言)、句を、結婚式の挨拶、朝礼、昼礼、スピーチ、会議、雑談、豆知識、ちょっとした話に利用してください。

この言葉で、あなたの悩み、精神的負担が少しでも軽減されれば嬉しいです。

きっとスピーチが苦手な方でも、スムーズに話せ、相手の印象に残る挨拶となるはずです!

今日も、最後までお読み頂き、ありがとうございましたm(__)m