プロ野球選手 広島カープ 津田恒実の名言-「弱気は最大の敵」
★「弱気は最大の敵」の意味
「弱い気持ちで物事に望めば、良い結果は生まれ無いので、強い気持ちが大切」と言う意味です。
スポーツ選手(アスリート)には、絶対大切な言葉、気持ちだと思います。
弱気では勝てない。
負けている時こそ、強い気持ちが大切だと。
でも、「自分の弱さ」や「自分の強さ」を、知らないといけないと思います。
自分の弱い部分を知っているからこそ、そこをカバーして勝負に勝つ。
自分の弱い部分を知っているからこそ、強いところでカバーをする。
スポーツ選手(アスリート)に限らず、何をするにも、弱気では成功しないと思います。
ただ気が強いだけではダメですが(^-^;
自分の弱い部分を知り、弱気を無くし、最善を尽くしましょう!
敵は自分自身ですね。
★プロ野球選手 広島カープ 津田恒実とは
津田恒実投手は、1960年8月1日に、山口県都濃郡南陽町(現在の周南市)に生まれます。
南陽工高時代には、1年時からエースとして活躍します。
1978年春の第50回選抜高等学校野球大会に出場しますが、準々決勝にて福井商業に敗けます。
同年夏の第60回全国高等学校野球選手権大会では、2回戦で天理高に0-1で負けます。
高校卒業後は、社会人野球の協和醱酵(現在の協和発酵キリン)に入社します。
1981年のドラフト会議で、広島東洋カープに1位指名されて入団します。
古葉竹識監督の元、入団1年目の1982年に先発投手として11勝6敗の成績を残して、球団初の新人王に輝きます。
2年目以降は、血行障害などで苦しみますが、1986年に抑え投手に転向し、リーグ優勝に貢献して、シーズン終了後にカムバック賞を獲得します。
その後は、「炎のストッパー」と言われ、活躍します。
背番号は、「14」番です。
1990年、4月に右肩を故障すると、頭痛も発症する。
この頭痛が、脳腫瘍と判明する。
闘病生活の末、一時は回復するも、1993年7月20日に死去する。
享年32歳でした。
私も野球少年で、実は、甲子園を目指していた、高校球児でした!
目指してだけですが(^-^;
津田投手は、リアルタイムでよく見ていました。
ストレートと遅いカーブの緩急の差で勝負する投手ですが、もちろん決め球はストレート!
バッターとは、気持ちのいい勝負でした。
一番印象に残っているのは、巨人(ジャイアンツ)の当時の4番である、原辰徳選手との勝負です。
この勝負で、打ちに行った原選手の、手甲の骨を砕いてしまうのです。
デッドボールではありませんよ(^-^;
ストライクのストレートでですよ!
それほど、威力のあったボールだったんですね。
いつも気合の入った、良い球を投げていました。
今でも記憶に残っている投手です。
これが津田恒実だ!
実際に投げている所を見たことが無いあなたは必読。
また、実際に見たことがあるアナタも、あの感動をもう一度、感じれます(^_-)-☆
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最後に、この名言(格言)を、結婚式の挨拶、朝礼、昼礼、スピーチ、会議、雑談、豆知識、ちょっとした話に利用してください。
きっとスピーチが苦手な方でも、スムーズに話せ、相手の印象に残る挨拶となるはずです!
今日も、最後までお読み頂き、ありがとうございましたm(__)m